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2026年8月15日 (土)

終戦記念日に

昔若いころ、戦前の教育を受けた人間がいなくなれば世の中は変わり進歩するかも・・・と思っていたことがあった。

たしか上岡龍太郎もそれと近いようなことを言っていたと記憶している。

それからかなりの年月が経った今の世の中、政治家とかSNSとかの言うことを見たり聞いたりしているとそうではなかったなと感じることが多い。

戦争、戦時中の体験者がいなくなればまた繰り返すかも・・・と。

     *

徴兵されて中国大陸に向かう祖父の陣中日記が亡くなった伯母の家から出て来たので少しずつ読んでいる。

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昭和13年7月15日、築湊(大阪?和歌山?の築港?)より出港するところから始まっているが、旧字と崩し字とかが多くて難しくなかなか読み進めない。

最後の書き込みが昭和14年3月12日。

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そしてこの後は書き込みなく、4月11日に銃弾が当たって戦死に至る。

妻(祖母)と4人の子(伯母、父、叔父二人)を残して。

生きていれば書き込んだであろうページ 

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日付も場所もわからないがおそらく大陸のどこかの写真。向かって左が祖父。

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昭和13年、隣の集落を進む漢口陥落の祝賀行列。 行先はおそらく村の神社。

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日本全体が陥落することになる7年前です。

     *

戦死した頃はまだ戦争が始まったばかりで、南方とかもう少し後だったら手帳や遺品などは戻ってくる可能性は限りなく低かったんだろう。

当時村では軍神のような扱いだったと伝え聞いている。

墓も戦死者個人のためだけのもので檀家寺の門前に建てられていた。

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残しておくべき歴史遺産という思いもあるけどいろいろな事情もあってもう一軒と同時に墓仕舞いをした。

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本当にこれでよかったのだろうか・・・❓

大工棟梁だった祖父は隣村の学校の建築を請け負っており、その時の現場写真が残されていた。

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出征中工事はどういうふうに進められていたのか詳しいことはもうわからないが、戦死から二年半後に完成に尽力したということに対して村長名で故人名宛の感謝状もまた伯母のところから出て来た。

そしてその40年余り経った昭和の終わる少し前頃、顔を見ることも無かった孫(自分)が建替えの設計に携わることになるとは・・・!?

巡りあわせかな。

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